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東京散歩(本郷、神田)(14.9.23)



本郷は、樋口一葉、坪内逍遥、石川啄木ら多くの文人たちが住んでいた。
今日は、本郷から神田まで散歩したい。

総武線水道橋駅下車


東京ドーム前陸橋通過






春日駅から真砂町市場の脇を抜ける。


栗が落ちていた。

         鐙坂(あぶみざか)
 本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右に
ゆるく曲がっている坂である。名前の由来は「鐙の製作者
の子孫が住んでいたから」(『江戸志』)とか、その形が「鐙
に似ている」ということから名付けられた(「改撰江戸志」)な
どといわれている。
 この坂の上の一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京
亮の中屋敷で、その跡地は右京山と呼ばれた。

    文京区教育委員会  平成6年3月

鐙坂を下って右に折れると菊水湯がある。




           宮沢賢治旧居跡
                         文京区本郷4-35-4
  宮沢賢治(明治29年〜昭和8年)は詩人・童話作家。花巻市生まれ。
大正10年1月上京、同年8月まで本郷菊坂町75番地稲垣方二階六畳に
間借りしていた。菜食主義者で馬鈴薯と水の食事が多かった。
  東京大学赤門前の文信社(現大学堂メガネ店)で謄写版刷りの筆耕や
校正などで自活し昼休みには街頭で日蓮宗の布教活動をした。これらの活
動と平行して童話・詩歌の創作に専念し、一日300枚の割合で原稿を書い
たといわれている。童話集「注文の多い料理店」に収められた「かしわばや
しの夜」、「どんぐりと山猫」などの主な作品はここでかかれたものである。
  8月、妹トシの肺炎の悪化の知らせで急ぎ花巻に帰ることになったが、ト
ランクにはいっぱいになるほど原稿が入っていたという。

        −−−郷土愛をはぐくむ文化財−−−
             文京区教育委員会   平成9年3月


菊水湯の門から菊坂へ上がると一葉旧居跡の表示がある。








炭団坂を上る。
坪内逍遥が住んだ跡がこの辺あるという。


文京ふるさと歴史館。
入館料100円。









本妙寺坂から急坂を登って左折、突き当
りのところに、菊富士ホテルの跡がある。
ホテルといっても洋風の高級下宿。
正宗白鳥、谷崎潤一郎、竹久夢二などが暮らした。






     一葉ゆかりの伊勢屋質店(本郷5-9-4)
 万延元年(1860)、この地で創業し、昭和57年に廃業した。樋口一葉(1872〜96)
と大変縁の深い質店であった。
 一葉の作品によると、一葉が明治23年m近くの旧菊坂町(現本郷4丁目)の貸家に母
と妹と移り住んでから、度々この伊勢屋に通い、苦しい家計をやりくりした。明治26年、
下谷竜泉寺町に移ってからも、終焉の地(現西片1−17−18)にもどってからも、伊勢
屋との縁は続いた。
 一葉が24歳の若さで亡くなった時、伊勢屋の主人が香典を持って弔ったことは、一葉
とのつながりの深さを物語る。店の部分は、明治40年に改築した。土蔵は外壁を関東
大震災後塗りなおしたが、内部は往時のままである。

    〜一葉の明治26年5月2日の日記から〜
  此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ、
  羽織二つ、一風呂敷につゝみて、母君と我と持ゆかんとす。
  蔵のうちにはるかくれ行ころもがへ

       郷土愛をはぐくむ文化財
     東京都文京区教育委員会  昭和63年3月




元伊勢屋質店を過ぎて、右手の胸突坂を登ると旧台町。
明治以降は町の大半が旅館や旅籠であった。
鳳明館は今も当時の建物を残している。


太栄館は1908年石川啄木が9ヶ月住んだ。
「倒潰の児島の磯の白砂に
われ泣き濡れて蟹とたはむる」


徳田秋声旧宅


本郷館。
本郷きっての高級下宿で東大に通う留学生や
地方の資産家の子息が下宿した。




東大正門から校内へ。








弥生門に抜ける。


立原道造記念館、弥生美術館、竹久夢二美術館を見学。
同じ建物にある店でオムレツを頂く。





また東大校内の三四郎池を散策。


東大赤門。


御茶ノ水駅をすぎて、明治大学あり。


神田神保町古書店街。
本屋さんがたくさんあり。
いっぺんに好きになる。







今日はこれまで。
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