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空のこばなし(空の卒業生さんからの投稿)


『初めての編隊飛行訓練』 投稿日: 4月 2日(火)08時20分52秒

  T−34メンターで初めて編隊飛行訓練(2機編隊)をした時のこと、教官が2番 機(僚機)の位置に飛行機を持っていき見え方、1番機の機体のどの部分とどの部 分を結んだ点(Reference Point)を教えてくれます。

  そして教官”O.K わかったか わたすぞ、You have control” 私”I have control"そのとたんに1番機が上へ下へ、右へ左へ、前へ後へと動きはじめる。

  何故1番機はよく動くのか、もう少しスムースに飛んでくれればと思い ”教官1番機はよく動きますね”と言うと ”バカヤロー 貴様があばれているのだ”という返事、緊張のあまり硬くなっているため自分が動いているという感覚を感じないのです。

  しばらくあばれてから 1.2番機を交代して自分が1番機になって2番機のクラスメートの動きみると自分と同じことをしているので みんな同じだと安心しました。

  こうして編隊飛行が上手になってゆくのです。
  では又





『空の悲劇その2』   投稿日:12月12日(水)14時46分03秒

  私にとって一番悲しい航空事故です。
  それは小牧基地でF-86Dに機種移行訓練を受けていた昭和39年9月 雲一つない快晴の日の出来事でした。 クラスは3名で訓練を開始し フェーズT(T−33で計器飛行ばかり30時間位特訓を受ける)を終了した時 3名の中の1名が急に自衛隊を退職し自分は医者になるといい、その後 某大学の医学部に入り現在では開業医をしています。

  クラスは2名となりました。相棒のH君は後輩で私より6歳若く(私は5年間教官稼業をしていたため)操縦技倆も優秀で毎回の飛行訓練の成績は殆ど「優」でした。

  訓練はフェーズU F-86Dでの飛行訓練に入り 確かレーダー操作訓練3回目の飛行でした

  3回目までは教官がチェイス(側について飛ぶ)してくれます。

  彼はレーダー操作訓練を終了して小牧基地が近くなったのでレーダーサイトから小牧の進入管制所への周波数の変更を指示され その周波数への変更中に教官機と空中接触したものと思われます。 

  航空事故が起きたという報が飛行隊にすぐ入ってきました。
  タワーからは落下傘が1つ開いて降下するのが見えたと言います 本来なら2つ開かなくてはならないのですが・・・

  救難ヘリがすぐ飛び立ち 落下傘降下をしたのは学生の方で現在病院に搬送中という連絡が入ったので 彼は助かったと思いましたが間もなく死亡の知らせが入ってきました。
  教官の方はコックピットに座ったまま 小牧東方の山中に墜落していました。

  ”○○Flight Lets go channel ×”が彼の最後のボイスでした。
  遺体が基地に帰ってきたので逢いに行きましたが 彼は見た目どこにも傷はなく ねむっているようで致命傷を聞くとベイルアウトした時の死因に多くある首の骨折でした。

  彼の部屋に行き遺品を整理して 数日後 部隊葬が行われ弔事を読んで彼にお別れをしました。 私の長いパイロット生活で一番悲しい出来事でした。
  卒業式は唯一人のクラスメートを失い卒業生1名という さみしいものになりました。




ピンクスプリッツに秀の項目 続編 投稿者:山岡 忠雄  投稿日:12月 1日(土)20時57分50秒

 はじまして、9月26日投稿の「ピンクスプリッツに秀の項目」記載のT−33で広島空港に不時着した元学生(航学11期生)の息子です。

 友人からこのホームページの話を聞き、私が生まれる以前の話をこのような形で聞くとはまったくの予想外のことでした。

 広島空港不時着の話は、父から聞いてましたし、当時の新聞のスクラップでも見ましたが、詳細をご存知の方が現在もいらしたのですね。ちなみにこの時のフライトは、ソロ2回目の時で、本人は、板付に緊急着陸したかったとのことです。




『空の悲劇 その1』    投稿日:12月 4日(火)12時24分31秒

  航空事故を私流に大別すると2つのケースになります。
  1つは航空機の故障(エンジン、装備品など)、悪天候、空中接触、バーティゴ(飛行中天と地の感覚が判らなくなる)などの事故はパイロット自身が故意に起こしたものではなく 他の要素が原因の1部となって起きる事故と、あと1つはパイロット自身が自分の操縦で規則違反をして

起こす事故、例えば”超低空飛行”です。今回は後者の場合を取り上げます。我々の俗語で”ピッケをかける”といいます。
  戦時中の話ですが郷土訪問飛行をして我が家に気をとられるあまりに失速したり、障害物にあたったりして 命を落とした人が沢山いたと聞きました。

  現在では離陸すると すぐレーダー コンタクトをするので超低空飛行をすることは出来ませんが 昭和40年頃までのレーダーは空港周辺だけで他の空域は映りませんでした。
  それでパイロットは自由に飛べるため 私が知る範囲内で数件あげると 橋の下をくぐる、民家の屋根瓦をジェット排気でふきとばす、湖面を数メートルで飛行する等です。
  当然 規則違反です。この中には命を落とさずにすんだ人もいますが懲戒免職になりました。

  それは昭和37年築城基地での出来事です。単独飛行にでたT-33が某市に墜落したという報がはいり現場に行ってみると 山から山へはりめぐらされた高圧送電線に翼をひっかけ反転して地面に激突していました、当然本人は即死です。幸い地上の建物を壊しただけで住民への被害はありませんでした。JET機の速度では肉眼で送電線を見つけることは不可能に近いのです、山間部を飛行する時は送電線の鉄塔は見えるので その鉄塔の高さ以下の高度では必ず送電線があるという事を予期して飛行しなければなりません。 かなしいかな単独飛行学生の飛行経験は浅く それだけの知識を持っていなかったのでしょう。

  ひっかけた送電線の高度は250メートル位で超低空飛行ではありませんが 単独飛行に出て何故そんな低い高度で飛行したのかを その後いろいろ調べると同じクラスの学生が彼は前週の日曜日に墜落した某市で彼女とデートをした という情報をえました。これは想像するだけですが彼は空から彼女に逢いに行き自分の命を落としたのかもしれません。

  それ以後 私は受持った学生の出身地が築城基地から近い場合(100マイル位)単独飛行のとき郷土訪問飛行をしないように よく注意しておいて 計器飛行訓練のときを利用して課目を実施しながら学生の郷里の上空に行き 自作の計器進入をさせて1000フィート(300メートル)で水平飛行にはいり I have control(私が操縦する)、オープン フード(計器飛行用の幌を開ける)座席をあげさせて 外を見ろといって 彼の故郷の上空を旋回してよく見せてやりました。



『CAさんが倒れて困る』  投稿日:11月27日(火)15時14分07秒

  東京〜米子(美保)便 B-737での出来事でした。
  その日は午前の便で 無事米子空港に到着しましたが 到着後に3人乗務しているCAさんの中の1人が体調不良で帰りの便には乗務できないと言うのです。

  そして空港の近くの病院に行ってしまいました。 営業さんに帰りの便のお客さんは何名と聞くと満席の126名とのこと 規則でCAさん1名につき担当できる乗客数は50名と定められています(緊急時に対応できる能力から算出されているものと思います) 帰りの便に乗務できるCAさんは2名なので搭乗できる乗客数は100名となり 残りの26名は搭乗できないことになります。 営業さんに搭乗できない人は午後の便(当時1日2便)にしてもらったら と言うと午後の便も満席とのこと この様な場合東京、名古屋、大阪、福岡などの便数の多い空港ではCAさんの補充はすぐに出来るのですが 米子のようなローカル空港では1日2便なのでCAさんの補充もできず 搭乗できない人26名を選ばなくてはなりません。

  先ず 優待券の人をさがすと4名いて その人は了解してくれたのですが あとの22名を選ばなければなりません。それからが大変でした ロビーのお客さんに事情をアナウンスして急用でない人は他の交通機関にとお願いしても申し出た人は数名だけで とても22名にはなりません。色々ともめて くじ引きという説まで出てきましたが これは適切な方法ではなく どうしても降りる人が決まらず結局 大阪に電話して 次の大阪〜米子便(他社便)でCAさんを1名送ってもらい3時間遅れで運航しましたが お客さんから沢山の こごとを頂き全く参りました。




『同期生』   投稿日:11月16日(金)10時45分34秒

  今回は同期生の話題をとりあげてみます。 他の組織の同期生を経験していないので比較をするのは むつかしく想像をするだけですが 自衛隊、特に航空学生の同期生には特別なものがあるように思うのです。

  わずか 1〜2年(私達は1年足らず)同じ目的に向かって 人生の中で最も多感な時期に 寝食を共にする、同じ釜の飯を食うだけの仲ですが 学生時代の同級生とは連帯感が違うのです。鍛えられれば 鍛えられるほど学生の結束力は強くなります。

  これは よっちさん、ディックさん、百里の学級委員さん、江草さん、も共感される事と思います。 航空学生を卒業して数十年たっても同期会に出席すると特別なものを感じるのです。 よっちさんも先日30周年の同期生会をされたそうですが 同期生に

  会うと みんな あの学生時代(18〜20歳)に帰るのですね。 私がA○A航空に移籍した時すでに数名の同期生が在籍しており 彼らには公私にわたり 有形、無形の世話をしてくれました。

  私が経験したエピソードを一つお話します。
  航空学生はカンニングをすると学生免(首)という規則になっていました(現在でもかな?)
それは卒業10日位前の出来事でした。ある課目の試験があり もうその試験は形式的なもので相当に悪い点数をとらない限り 卒業出来ていたのに某学生はカンニングをしてそれが見つかったのです。規則にある通り彼は学生免になる事になります。

  同区隊員(45名)は彼が首になるのが 偲びがたく その夜区隊全員で相談して彼を何とか救うために 血判状を提出する事に決めました。”某学生は悪気はなく ほんの出来心でした事なので 今回は見逃してやってほしい” 旨の文書を書き そのあとに区隊全員44名 各人が署名して血判を押し 翌日 学生隊長に提出しましたが 隊長は

  規則は曲げられないと その血判状は返され 彼は卒業 1週間前に学生免となり離隊して行きました。 数年前 同期生会をした時 彼は40数年前の血判状を持ってきてこれは 自分の生涯の宝物だと言って見せてくれました。

  同期生というものは いいものですね。



『災い転じて福となる』    投稿日:11月 8日(木)15時20分21秒

  昭和33年10月 新田原基地での出来事です。
  当時 新田原基地はT-33JET練習機の教育飛行隊で 私はその第1回目の学生でした。
  その日は午後の飛行訓練で 11〜12機が飛行したと思います。

  天候がよかったので そのうちの4〜5機は単独飛行(ソロ)で私も単独飛行の中の1機でした。 指定された機番の飛行機に行くと整備員が この飛行機は点検中にトラブルが見つかったので飛行はできませんと言う、仕方なくフライトルームに帰り

  教官に事情を話してから しばらくすると予備機が1機出て来たので 今から飛んでこいと教官に言われ またライフジャケットをつけ、落下傘を背負い、左手にディンギー(救命浮舟)、右手にヘルメットを持って(結構重たい)飛行機まで行き外部点検をして

  乗り込みましたので 他の人より20分位遅れて出発する事になりました。
  これが結果的に”幸い”したのです。 各機 訓練を終え帰投し順次着陸を始めて数機目が着陸したとき ヒット バリヤー(滑走路末端にオーバーランしたときに飛行機を捕捉する

  装置)をしたため 滑走路が閉鎖されました。上空には未だ8機位飛んでいたので飛行場上空を旋回していましたが 各機とも残燃料は少なく 当時JET機が着陸できる近くの飛行場は鹿屋基地か築城基地で鹿屋には50マイル、築城には100マイルあるので

  指揮所から全機 鹿屋に着陸するように指示されました。約8機(うちソロ機は3機)一斉に鹿屋に向かいましたが 各機とも残燃料は少なく100ガロン前後だったと思います。
  その時 私は遅れて離陸したお陰で200ガロン以上持っていたので 全くあわてることなく

  鹿屋に向かいました。当時 鹿屋の所属機はプロペラ機だけなのでJET機の着陸パターン (プロペラ機と異なる)に馴れていないので管制官のコントロールする要領が悪くスムースにいかない、各機とも残燃料が少ないため早く着陸したい、ボイスを聞いていると

  蜂の巣をつついたみたい、 その時悪い時は悪い事が重なるもので ソロ機が着陸し”教官フラット タイヤ(パンク)しました。”と言う。 無理もないと思う、初めて着陸する飛行場で また鹿屋の滑走路は中央部が高くなっており接地すると前方が

  十分見えない その上にディスタンス マーカー(滑走路の残りの長さを表示してあるボード)がないので(現在は設置されていると思います) ソロ機は接地後すぐにブレーキを強く踏んだのでパンクしたものと思います。 上空にいる教官は”パワーを出して近くの

  誘導路に入り 滑走路を早くあけろ”と言う、そして順次着陸していきましたが 残燃料の一番少ない機は40ガロン位だったと思います。 その間 私は遅れたお陰で残燃料も十分あり5〜6000フィートで旋回しながら待機し 最後にゆっくり着陸しました。

  やはり これが「災い転じて福となる」ということですかね。(少し違うかな?)当時 鹿屋にはJP-4(JET燃料)がなく 新田原から陸送するため その日は鹿屋の街に宿泊しました。 まだ少し続きがあるのですが 長くなるので これで終わります。






『空中で訓示を聞く』   投稿日:11月 1日(木)15時16分12秒

  昭41〜2年頃の出来事です。 当時の防衛庁長官(船田 中氏)が千歳基地を視察されたとき YS-11で来られるので出迎えをすることになり 当時千歳基地にはF-104とF-86Dの飛行隊が所属しており F-104ではYS-11と編隊を組むのが

  困難なため F-86D(3機)で出迎えることになり 私がその中の1機に搭乗することになりました。当日 三沢付近まで出迎えに行き レーダーサイトの誘導で長官機(YS-11)に空中集合して 長官機を中心に左右と後方に編隊を組み

  千歳までエスコートしました。 すると 長官がよほど 嬉しかったのかマイクをにぎりしめて「北の空の守りは君達の双肩にかかっている・・・・・」から始まり延々と約5分間 私達にに対し訓示をされました。空中で5分間の送信は相当に

  長い時間です。レーダーサイトの周波数だったので よかったものの 航空管制の周波数だったら大変なことに なっていたと思います。ラジオの送信は使用時間を最小限にするのが常識ですので 空中で訓示をされたのは前代未聞の事と思います。

  到着後 出迎えた私達3人に 色紙を頂きました。


『クイズの解答』 投稿日:10月26日(金)18時02分20秒

  沢山の解答を頂き有難うございました。
  CAさんの答は「トイレが近いから」でした。
  Kazuさんの2番目の項目が正解です、しかし よっちさん、makさん、

  taeさん、すみさんの解答も うなずける ところがありますね。
  私は その外にギャレーが近いのも考えられると思います。

  客室乗務員の名称は10年位前にキャビン アテンダントに変更されましたが
  永い間 デスさんと呼んでいたので つい デスさんと書きましたが
  正しくはキャビン アテンダントで現在はCA(シーエー)さんと
  呼んでいるようです。


『恩賜のタバコ』 投稿日:10月24日(水)14時19分29秒

  私が操縦した飛行機に常陸宮様が搭乗されたことがありました。
  YS-11で広島〜羽田便で その日は天候もよく快適な飛行で羽田空港に到着し駐機場に入り タラップを出してお客さんの

  降機が始まり しばらくして全員の降機が終わったものと思いCO-PIさん(副操縦士)に”やはり偉い人を乗せると気疲れするな”と相当大きな声で言ったそのとき コンコンとコックピット ドアを

  ノックする音がしました。 デスさんの降機終了の報告だと思い”は〜い”と返事をして後を振向くと 何とそこに常陸宮様が立たれているではありませんか、私はびっくりして”ハッ”といったまま 次の

  言葉が出て来ません すると宮様は”ありがとう”と一言いって降機
  されて行きました。 運航管理室に帰ると タバコを二箱(自分とCO-PIさん)渡されました。宮内庁の人が私達においていかれたそうです。

  開けてみるとタバコ、一本、一本に菊の御文章がついており これが軍歌にもある、戦時中 軍人さんが戦地におもむく時に戴いた「恩賜のタバコ」とは このタバコのことだなと思いました。

  ここで みなさんにクイズを差し上げます。
  デスさんに宮様はどの座席に座られたのかと尋ねたら 最後列から2列目とのこと 最後列はお付きの人で その前の座席に座られたそうです。

  普通に考えると どこにでも座席がとれれば機内の前方を利用されるだろうと思っておりましたのに、 それが何故 後方に座席をとられたのかとデスさんに聞くと その答を聞いて”なるほど”と思いました。

  後方の座席を使用されたのは何故でしょう?



『怪情報』 投稿日:10月18日(木)14時57分29秒

  それは5便(ロス〜成田)での出来事でした。
  いつもの通りロスを離陸して5〜6分した時にカンパニーラジオが呼び出してきました。

  大体こんな時はいつも よいニュースではありません。
  今 会社の事務所に怪文書が届いたというのです。その文書には”今日の5便は危ない”と書かれていて筆跡はアメリカ人ではなく

  南米系の人が書いたような文字だということでした。
  カンパニーから そちらで処置の方をよろしくと言ってきましたが私はその文書を直接見ていないので 信憑性が判断できず 99.9%

  イタズラ だと思いましたが全く無視は出来ません。そのうちにカンパニー ラジオの交信圏外に出るので 再度サンフランシスコの局を経由して状況を知らせる旨 返事をして一応交信を終わりました。

  早速 爆発物等に対処するマニュアルを出し、マニュアルでは
  第一段階、第二段階、第三段階になっていました。(現在は改正されていると思います) まず客室乗務員のチーフをコックピットに呼んで

  事情を説明しマニュアルにある通りに第一段階を実施することにしました。
  第一段階はお客様には知らせずに機内の不審物をさがすという作業になっているのです。 不審物があれば第二段階に進みますが第二段階に

  進むとお客様に状況を知らせることになるので もし第二段階に入るような事態になればお客様を不安な状態にして太平洋は渡れないのでその時はロス空港に引き返そうと思っていましたが不審物は見つからず

  サンフランシスコの近くで不審物がないので このまま飛行を続行して成田に向かう旨伝えました。 しかし それからの成田までの約10時間 の飛行は非常に長く感じ いつものフライトの何倍も疲れました。

  これと似た事例を以前 国内線でも経験しました。
  それはYS-11(大阪〜鳥取)便で大阪を離陸して上昇中 やはりカンパニーラジオが呼び出してきて 今 会社に”今日の鳥取便に爆発物を仕掛けた”

  と電話が入ってきたので すぐ引き返すようにと指示があり すぐ管制に連絡して大阪に引き返し 着陸後機内を調べましたが異常はありませんでした。
  全く このような イタズラは悪質で困ったものです。


『着陸復行をする勇気』 投稿日:10月10日(水)15時10分37秒

  技術を競う職業の人はみな同じと思いますが、パイロットも意外にプライドの高い人種です。 特に自衛隊のパイロットは戦闘が目的なので空中戦闘、射撃等の操縦技術の優劣を競う

  ことが多いのです。 民間航空では安全に飛行して目的地に到着することが目的なので自衛隊ほどではありませんが 進入過程と着陸が技術を競うところとなります。

  通常 着陸復行をする場合は3つのケースが考えられます。第一は管制官から指示された場合、第二は進入できる限界点に達しても雲や霧のため滑走路等を視認できない場合、

  第三は天候はよいのですが横風が制限値を超えている場合です。問題は第三の横風が強い時です。 各機種によって横風制限値が決められていて完全にオーバーしていれば進入もせず代替空港に

  行くのですが 横風が制限値付近にある場合が問題なのです。風は自然現象で息(GUST)があるので 常に変化しておりそれに対応して最終進入をして行くのですが 前方機が次々と

  着陸していくと 自分も着陸しないと腕がよくないと皆から思われはしないかということが頭の中をよぎるのです。
  そこで つい無理をして着陸しようと試みるのですが

  (ちなみに B-747では接地時に風にあおられ 6度傾くと外側のエンジンの下部が滑走路面に接触するのです)
  しかし このときに自分が安全に着陸できないと判断したとき

  着陸復行をするためのパワーを入れるのには相当の勇気がいるのです。この勇気ある行動が出来るようになれば 立派な機長であり 本当に勇気のあるパイロットだと私は思うのです。



『思い込みは怖い』 投稿日:10月 3日(水)14時24分52秒
  私がパイロット生活をしている間に 2度の”No Gear Landing”
  (脚を降ろし忘れての着陸)をみました。
  1度は未遂事故で胴体が接地する直前に気が付き 着陸復行しましたが

  プロペラの先端を数センチ 滑走路面に接触させてから場周経路をまわり
  次回は脚を降ろして着陸しましたが プロペラの先端は数センチ曲がっていました。
  2度目は 接地するまで全く気が付かず 完全な胴体着陸でしたが
  大きな事故にはなりませんでした。

  この2例共 空自時代の出来事でパイロットは一人でした、もしパイロットが
  二人いたら この事故は防げたかも知れません。
  二例共に共通していることは タワーから脚が出ていないとアドバイスを

  受けているということです。 あとで本人に聞くと 自分は脚を降ろしている
  と思い込んでいるので No Gear は自分ではなく 他人事のように
  思い 誰かNo Gear Landingをしている やつがいるな

  と思っていたそうです。 この事故をみて 人間は一度思い込んだら
  そこから なかなか抜け出せないものだ ということを教えられました。



『ピンク スリップに”秀”の項目』 投稿日: 9月26日(水)14時46分19秒
  ピンクスリップとは:学生は毎回、飛行訓練が終了したら教官から
  成績用紙に各訓練項目についての評価と注意事項等を記入してもらいます。
  普通の出来であれば白色の用紙に記入してもらいますが項目の中に

  「不可」があればピンク色の用紙に記入されます。 これがピンクスリップです。
  よっち教官も2枚や3枚は書かれたことがあると思います。

  それは昭和36年7月頃 築城基地(T-33飛行教育団)での出来事でした。
  その日の天候は殆ど雲はなく下層付近に煙霧(HAZE)があり視程が若干
  悪い状況(10キロメートルはあったとおもいます)でした。

  通常の飛行訓練が実施され各機 訓練を終了して帰投してきましたが
  1機 単独飛行に出た飛行機が帰ってきません タワーから各種 周波数で
  いくら呼び出しても応答なし 初めはラジオアウトかなとも思いましたが

  搭載燃料から計算して もう燃料がなくなっている時刻になっているので
  他の飛行場に着陸しているのではと思い 当時で着陸出来そうな飛行場
  芦屋、板付(現福岡)、新田、等に電話しても着陸しておらず、捜索活動を

  開始しなければ と言っている時、広島の飛行場に1機ジェット機が着陸
  しているという情報が入り 早速 副隊長と私がメンター(T-34)
  (救難用として築城に2機配備されていた)で広島に向かいました。

  当時 広島空港(現広島西飛行場)はオープン(供用開始)されておらず
  滑走路とエプロンは完成していましたがターミナルビル、タワー等は工事中
  の状態でした。空港上空についてみるとエプロンにT-33が1機 駐機して

  いるではありませんか、タワーは未だオープンしていないので 滑走路に
  障害物がないか確認して着陸しました。 学生は地元の新聞記者から色々と
  質問され困っていました。 とりあえず副隊長が広島に残り 私が学生を

  メンターに乗せて築城に帰りました。 当時の広島空港の滑走路長は
  1200メートルでYS-11がやっと着陸できる長さで T-33では最低でも
  1500メートルは必要です。 にもかかわらず T-33の飛行時間が

  30〜40時間の学生が見事な着陸をしているのです。接地点もよく
  ブレーキのタイヤ痕も均等についているのです。 あとから学生に聞くと
  ロスト ポジション(自分の位置を見失うこと)をして築城飛行場をさがす

  ため 2〜3000フィートではえずりまわって いるうちに残燃料も少なく
  なり その時 真下に滑走路がみえたので芦屋飛行場と思い着陸したそうです。
  (不幸中の幸いでした) 通常 単独飛行の場合 飛行時間だけ記入するのですが

  その学生は受持教官からピンクスリップをもらい 判断力、計画性などの項目は
  「不可」となっていましたが 着陸の項目だけは「秀」がついていました。
  空自のパイロットは沢山いますがT-33で1200メートルの滑走路に着陸したのは

  多分 彼一人だと思います。
  「こばなし」にしては 少し長すぎてすみません。



『早く到着してしかられる』 投稿日: 9月19日(水)14時44分00秒
  私は大の広島カープ ファンです。
  地元のチームなので当然ですが 理由はもう一つあります。
  現在 野球評論家の古葉竹織(カープ初優勝当時の監督)さんは

  私と親戚関係になるのです。 カープの初優勝は昭和50年10月15日
  後楽園の巨人戦に勝って決まりました。 万年 Bクラスだった広島カープが
  優勝したのですから感無量でした。

  翌10月16日 私のフライト スケジュールは東京〜広島便で10時頃
  東京発のように記憶しています。 出発準備を完了して お客様の塔乗が
  始まりお客様の方をみると 何と広島カープの選手の一団が塔乗してくる

  ではありませんか 大下、三村、水谷、水沼選手外 コーチ陣など約20名
  古葉監督、その他数名の選手はテレビ出演のためか この便には搭乗しませんでした。
  この日の天候は絶好の飛行日和で定刻に東京を出発して広島空港(現広島西飛行場)に

  向け快適な飛行を続けて それまで私は特別な事情がない限りキャプテン アナウンス
  はしたことはありませんでしたが この日ばかりは特別なので 広島カープ優勝
  オメデトウございます のアナウンスをしました。

  広島地方の天候も秋晴れでとてもよく 福山付近までくると尾道、三原、呉と視界に
  入り この付近は我が故郷、我が庭のようなもので計器飛行方式をキャンセルして
  有視界飛行方式で ゆっくりと高度を下げ始め 速度を多めにして真直ぐ空港に

  向い定刻より15分早く着陸しました。 ターミナルビルは大きな横断幕、紙ふぶきと
  沢山のファンが迎えてくれて大変な歓迎ぶりでした。
  お客様が全員降機され私たちも降機し事務所に行くと 運航管理者が機長 放送各社

  からクレームが入って困りましたと言うのです。 今迄遅く到着して苦情を受けたこと
  はありますが 早く到着して何でクレームがきたのか わかりませんでした。
  すると各放送局は時刻表にある到着時刻にあわせて テレビカメラ等の準備を

  していたようで15分も早く着かれ予定していた写真がとれず クレームが
  ついたということです。 次回この様なフライトがあれば 時刻表通りに
  到着しようと思いましたが しかし それ以後この様なフライトをすることは
  退職するまで 一度もありませんでした


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