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空(よっちの自伝)

目 次
1 ぱいろっとへの憧れ
2 航空学生受験
3 航空学生入隊
4 適性検査
5 730事故
6 航空学生の生活
7 操縦英語課程
8 第1初級操縦課程
9 単独飛行
10 第2初級操縦課程
11 基本操縦課程
12 戦闘操縦課程
13 第8飛行隊
14 第203飛行隊
15 第11飛行教育団
16 第207飛行隊
17 第22飛行隊
18 硫黄島基地隊UF104
19 4空団安全班長


1 パイロットへの憧れ
(11.11.4)
  小さい頃からパイロットになりたいと思っていた。空を飛んでいた夢をみた。思うように空を飛べなくて悔しい思いをした。でも思うように飛べたときはうれしかった。
  中学生の頃になると、パイロットになることは現実的でないと考えるようになった。なぜなら私がパイロットになれるはずがないと思ったからである。しかし、友達のタケシがいた。彼は、飛行機フリークで、パイロットになる夢を話してくれた。私も小さい頃はパイロットになりたいと話したような気がする。
  普通高校に進学した。中学校時代は、特に勉強したわけではないが、上位にいた。農家の長男で農業高校に行くものと思っていたが、そのころは特に考えもなく、自然に新発田高校へ受験した。親も特に反対しなかった。高校時代は、中学時代と同様に、マイペースの勉学態度だった。成績は中位に下がった。別に気にもしなかったし、親も特に何も言わなかった。
  高校3年となり、大学進学を希望した。しかし特に勉強に力を入れたわけでもなかった。
  当時、オートバイの免許を取りたいと思っており、夏休みに新潟の黒崎にある免許センターに自動2輪の免許受験に行った。結果は免許を取ることが出来なっかた。しかし、このときある人に声をかけられた。海上自衛隊のパイロットで、当時、新潟地方連絡部に所属していた人である。パイロットになりたくないかと話しかけてきた。小さい頃からパイロットになりたいと思っていた私は、この頃にはこの思いは、心の奥底にしまい込んでいたような気がする。これが突然のこの誘いである。思わず話に乗って引き込まれてしまった。
  これが航空学生受験のきっかけであった。


2 航空学生受験
(11.11.6)
  新発田地連の人に受験要領及び過去の問題集などの資料を得て、勉強した。
 パイロットへの道のり(空自ホームページ)
  英語、数学、国語、理科、社会及び空間判断を伴う適正検査を9月頃に陸上自衛隊新発田駐屯地で受験した。1次試験に合格した。
  2次試験は埼玉県の航空自衛隊の入間基地で11月頃に行われた。身体検査と面接である。学生服を着て、新潟の新発田から東京まで初めての一人旅であった。池袋から西武線に乗り稲荷山公園で下車した。基地の広いのに驚いた。
  面接で航空自衛隊か海上自衛隊のどちらの航空学生に行きたいかを質問され、航空自衛隊を希望した。
  宿泊場所に新潟から、他3人の2次試験受験者がいた。全員合格した。大森兄弟は一人が、防衛大学に行ったので、結果、私を含めて3人が航空学生に入隊した。


3 航空学生入隊
(11.11.10)
   
  昭和46年4月 当時新幹線はなく、新潟から大阪経由、山陽本線特急で概ね16時間かけ、山口県防府駅に到着した。学生服であった。
  1部屋は2段ベッドで10人の新入学生と、1期上の荻野先輩が同部屋となった。荻野先輩がベットの取り方、食事の場所、生活全般の面倒をみてくれた。
  ベッドは毛布とシーツだけであり布団しか知らない私としては、果たしてこれで寝れるものか心配であった。
  26期の先輩は、小松先輩を始め、驚くほど親切で、逆に心配になった。
  着隊直後の身体検査により、基準に満たないものは入隊できず
家に帰ったものもいたようだ。
  身体検査も無事通過し、4月5日晴れて入隊して自衛官そして航空学生に入隊した。
  26期の27期へのしごきがこの日から始まった。
  毎晩、隊歌に始まり、号令調整、腕立て伏せと、我々を早く一人前の自衛官に仕立てる情熱で鍛えていただいた。いらないお世話と感じる暇もなく、3ヶ月が過ぎ先輩は卒業していった。
  当時は、航空学生課程が15ヶ月でありその2年後の29期からは2年生となった。

  入隊直後、よくメンターだの、86だのと飛行機の名前がでたが私には、ちんぷんかんぷんであった。当時の航空自衛隊の装備している飛行機を、私は全く知らなかった。
  飛行機乗りになるならば、当然飛行機のことを良く知っているのが普通であり、同期の大半は、飛行機の知識はあったようである。
  6月頃から、メンターに乗るという話を先輩がするのである。メンターに乗って何をするのか理解できずにいた。メンターはT−34という初級レシプロ練習機で、防府南基地で当時25期の先輩が飛行訓練を行っており、この飛行機の名前を知るようになっていた。
  飛行適正検査が始まるのである。


4 適性検査
(11.11.13)
  適性検査は、飛行機乗りとしての適正があるか、どうか実機に乗って適正を検査するものである。
  当時T−34メンター初級練習機の後席に乗り、9回検査飛行を行った。
  面倒を見てくださる主任教官は、益田1尉であった。
  簡単な飛行理論から操縦法、パラシュートなどの装具の取り扱い方の教育を受けた。
  その後飛行検査である。最初は、教官のデモフライト、その後練習を行い、次に検査を実施するパターンの繰り返しであった。
  実施科目は、上昇、上昇旋回、上昇からのレベルオフ、普通旋回、急旋回、降下、降下旋回、降下からのレベルオフなどであった。
  当時を思い返すと、難しかったのか、出来が良かったのか解らない。その意味では飛行適正があったのだろうが、その後の飛行コースを苦労したことを見ると、良い適正はなかったのかと思う。
  恐ろしい教官がいた。あだ名はジャイアント。戦中の生き残りのパイロットという噂である。体が大きくて、仁王様のような目をしていた。1回目の飛行適正検査の教官がジャイアントであった。怖くておどおどしていた。上空でマイナスの[G]をかけられ思わず叫んでしまった。
「何を怖がっているか!!」
一喝され、操縦桿をぐるぐる回された。飛行終了後、飛行隊の裏に連れ出され説教された。怖いけれど、真剣な態度の中に、人を育てる愛情を感じた。
  2回目の飛行検査からは、落ち着いて出来たような気がする。

  現在の適性検査は、航空学生入隊前の3次試験として4回の飛行検査で実施される。当時は入隊後、6月から7月ころに実施し、結果を夏休み前に発表するのである。27期は3区隊に分かれ、当初100名以上入隊したが、この発表で飛行要員に残ったのは70名ほどであった。
  区隊長が、区隊全員の前で、一人一人に航空要員か地上要員と言っていく。
「見田は航空要員」
やったと思うのと、地上要員に回された同期を考えると喜びを表に現せない雰囲気であった。
地上要員になった者のほとんどは、自衛隊を辞め、家に帰っていった。

  楽しい夏休みの直前、航空自衛隊のジェット機と民間機が衝突したという暗いニュースが飛び込んできた。


5 730事故
(11.11.28)
  はじめての夏休みがまもなくであった。グランドで体育訓練をしていた。助教が自衛隊の航空機が民間機と衝突して墜落したらしいという情報が入った。
  昭和46年7月30日、全日空のB−727が飛行課程訓練中のF−86Fと衝突した事故である。F-86搭乗の学生は、脱出したが、全日空のB−727は岩手県の雫石に墜落し、乗員、乗客は全員死亡した。
  その後、裁判が長い間行われ、教官機の教官は有罪、学生機搭乗のパイロット学生は無罪となった。
  この730事故は、多くの犠牲者を出したことで、航空自衛隊に重責を負うことになり、この後、訓練空域は航空路等と分離され、ほとんどが、海の上となった。
  しかし、航空学生教育隊では、教育訓練は、計画どおり進められ、夏休みも終わり、訓練が継続した。


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6 航空学生の生活
(11.11.29)
   
  航空学生の勉強内容は、数学、英語、航空工学等の理系学科がメインであった。体育は、持続走、水泳、ラクビー等であり、武道では、剣道、銃剣道を行った。自衛官としては、基本教練等を行った。
  入隊当時、私の体重は182センチで65kgであったのが、15ヶ月後では72kgまで増えていた。筋肉がついて体重が増えたのである。当時、区隊長は、卒業する頃になると、皆「こって牛」のような尻になってカッコ良くなるぞとよく言っていた。尻に筋肉がつき、張りのある力強い姿格好になると言ったものである。まさに卒業時期になると、モヤシのような体から、筋肉が付き格好良い体に変身した。
  航空学生の生活は、午前中は座学、午後は体を動かしていた。
  行事として、遠泳、30km行軍、武道大会(剣道、銃剣道)、団体マラソン、60km行軍、ドリル等であり、卒業前には南九州旅行等があった。
  全般的な感想としては、体育会系の学校のように、とにかく体を鍛えていたような気がする。かなりきつかった印象が大きい。
  卒業時には、新潟から父が出席してくれた。区隊長、助教、後輩の見送りの時は涙してしまった。


7 操縦英語課程
(11.12.5)
  航空学生課程(防府)が終わり、奈良にある操縦英語課程が始まった。この課程は、操縦英語の素養を身につけるための課程である。この課程は、英語の出来のいい者ごとのクラス分けがなされる。早いコースは1ヶ月から半年までのコースに分けられる。早いコースからA(アルファ)、B(ブラボー)、C(チャーリー)、D(デルタ)と名前を付けられる。早いコースから第1初級課程のT−34(メンター)に進んでいくのである。私はB(ブラボー)コースになった。
  このコースでは英語課程の他に、比叡山での心の修行と習志野の陸上自衛隊でのパラシュート訓練があった。
  英語課程は、毎日テープを聴いて英語力を向上させることに費やした。たまに奈良公園に外国の方を探し、英語の練習をさせてもらったりした。結構、若い女の子と英語練習をしている者もいた。
  比叡山の居士林道場では、座禅したり、写経したり般若心行を唱えたり、山を走り回ったりと結構楽しかった。宗教心が芽ばえたきっかけになった。千日業をやられた酒井氏が、ご飯を炊いて下さっていたような記憶がある。
  習志野では、毎日、着地訓練と懸垂でくたくただ。度胸訓練で、人間が一番恐怖を感じる11メータからの飛び降り訓練のこと。「見田学生飛び降ります。」と大声で叫び、出口に両手をかけたらこれが恐怖心でつっかい棒となり後ろから蹴られて飛び出した恥ずかしい経験をしてしまった。
  最後に、80メートル鉄塔からのパラシュート降下である。パラシュートは開いた状態で吊り上げられ80メートルに上げられる。習志野から太平洋は見えるし、着地予定のグランドは、まるでマッチ箱の大きさだ。瞬間切り離される。風の音だけが聞こえた。地面が浮かび上がってくる。無我夢中で体が着地動作を自動的にして無事地面についた。
  同期の川原は、風が強くなり、近くのPXの屋根の上におりて梯子で地面に到着した。
  楽しかった英語課程も2ヶ月ほどで終わり、74−Bコースは静浜組と防府組に分けられることになる。第1初級課程は、静岡県大井川町にある静浜基地と防府市にある防府北基地にあり、私は7人の仲間とともに、鬼の教官が居ると噂された静浜基地に期待に胸を膨らまして行くことになった。


8 第1初級操縦課程(静浜)
(11.12.11)
       
     (T−3であり、T−34と若干異なる。)
  74−B静浜組は、藤枝駅に制服姿で到着した。基地からマイクロバスで迎えに来ていた。迎えに来ていた人は、サングラスの怖い人で、にこりともせず、必要なことだけ一言だけ話す感じである。
  「乗れ」の一言で、あわてて皆マイクロバスに乗り込む。鈴木候補生は、あわててドアに頭を打ち血を流す始末である。
  「あわてるな」と怒鳴られる。一瞬今後の生活が目に見えるようであった。
  我々74−Bコースのコマンダーは斉藤1尉である。輸送機のパイロット出身であり、外見は親分肌であり、内心は愛情一杯の人である。アシコマは、平岡2尉で戦闘機パイロット出身、藤枝駅に迎えに来た人である。
  フライトコースが開始され、私と矢部候補生(新潟出身)は、藤田2尉が担当教官になった。

(11.12.18)
  T-34メンターの教育飛行時間は33時間、期間は約3ヶ月である。パイロットコースの最初であり、白紙の状況からの操縦教育で、基本の基本から教育を受けることになる。いわゆるはしの上げ下げから教官をとうして教育される。
  座学教育から開始され、航空機取り扱い、飛行する上での規則類、パラシュートなどの装具取り扱い、操縦法、及び空中操作の各課目の実施要領等などを夜遅くまで勉強した。
  いよいよ最初の同乗飛行が開始されることになった。
  当日は、飛行前ブリーフィングで教官から本日のフライトに内容及び最低限の必要な知識を確認され、パラシュート等の救命胴衣を身につけ、ヘルメットと救命浮舟を手に持ち、駐機場に向かう。航空機に到着したら、外部点検を終了し、「見田学生同乗、CP-1」と大声で教官に申告する。パラシュート、ヘルメット、救命浮舟を身につけ(約20キログラム以上)、航空機に乗り込む。列線整備員の方の手助けを受け安全ベルト、ヘルメットのコネクター等を装着する。
  すでに空に浮いているようなふわふわの状態で、内部点検を開始する。内部点検は、エンジンスタート前のスイッチ類の正常な位置を確認していくのである。教官は後席に乗っているので学生の内部点検を教官の目で確認は出来ない。しかしながら教官は教官、肝心な操作は確実に確認しているのである。なんとか内部点検を終了し、エンジンスタートである。
 「バッテリースイッチ オン」
 「アンチコ オン」
 「ボースサイド クリアー」
 発唱点検しながら、スタータースイッチを入れると、プロペラが回り始める。エンジンが回ってくれと祈る。直後ブルーンと力強いエンジン音が響く。
  一瞬、エンジンが回った安心感と、極度の緊張感から、真っ白になり、その後の手順が出てこない。深呼吸をして、心を落ち着ける。その後の手順を思い出しながらタクシーアウトである。
  最初は、教官がデモで地上滑走を行い、途中で自分の操作練習である。方向及びブレーキははラダーペダルで行う。最初は操作が大きいため、外から垂直尾翼のラダーを見ていると、左右にパタパタ大きく動き、まるで団扇で推力を得ているようである。
  離陸のため滑走路の手前で管制塔にコール
 「静浜タワー、フヨー○○ NO-1」
 「フヨー○○ 静浜タワー ウインド270/10 クリアードフォーテイクオフ」
滑走路進入し一旦停止し、推力を上げる。いよいよブレーキを離せば離陸滑走だ。

(11.12.23)
  プロペラ後流のため、右ラダーを一杯踏み込んだら、ラダーの使いすぎで右に機首が大きく偏向する。あわててラダーをゆるめると逆方向に機首が向く。と言う具合でまさに右往左往しながら、教官の助けを得ながら、離陸した。
  第1回目の飛行訓練は、地形を確認したり、航空機の慣熟などで特に厳しいものではない。最初は慣れることから始めるのが通常である。
  しかし、学生にとっては、やっと覚えたチックリストの手順通りに、外部点検、エンジンスタート、及び各種上空の点検、着陸後のエンジンストップ手順等は実施することになり、これだけで大変である。
上空での操作まで、出来るはずがない。
  しかし、2回目以降の訓練では、地上手順は出来て当たり前、すでに次のステップである上空課目に移っているのである。
  失速、スピン等を実施し、飛行機の特性を把握し、シャンデル、レージー8等及びループ、エルロンロール等のアクロ課目により空中感覚を身につけていくのである。
  これと平行して、3から4回目の訓練では、着陸訓練が開始される。
  この課程での大きな難関は、着陸を一人で出来ることである。つまり単独飛行、ソロ飛行に出ることである。これが出来なければ、パイロット学生は首である。


9 単独飛行
(12.1.20)
  いよいよソロ前となり、教官も学生も必死であった。着陸一筋の訓練の毎日である。
  落着、高返し、返し不足、ホットランディング、ショートとうまくいかない。
  10回に1回うまくいくようになった。
  10回に3回うまくいくようになった。
  教官も熱を帯びて、幾何級数的に言葉も熱意も厳しくなってくる。
  10回に4回ほど安全な着陸ができるようななった。
  いよいよ、単独飛行に出るためのチェックアウト(検定)となり後がない。
  本番に弱い自分であるが、情けないほど着陸が出来ない。
  気を落としながら、訓練終了して、地上滑走中、
  「よし、ソロに行ってこい!!」
  教官の言葉である。
  「・・・・・・・}
  言葉が浮かばない。心配である。うれしい。
  「大丈夫か?」
  教官も、不安なのである。学生が単独飛行に出て事故でも起こせば、教官の責任である。今日の出来は良くないが、地上からの助言で安全には、着陸できると判断したから自分は単独飛行をクリアーした。しかし、ギャンブルみたいな賭ではあった。
  
  メンターの尾翼の下部部分に赤い吹き流しを、整備員がつけてくれた。
  「落ち着いて!」整備員が励ましてくれる。
  エンジンスタート
  タクシー(地上滑走)
  エンジンランナップ(飛行前エンジンチェック)
  いよいよ離陸して、バックミラーで後席を見ると誰もいない。
  不安と思うより、うるさい教官がいないので思わずニヤリとしてしまった。
  もう、離陸してしまったら、糞度胸がすわる。
  ベースターンコール
  トリム
  滑走路
  速度
  クロスチェックしながら、着陸進入していく。
  モーボ(滑走路接地点付近に教官がいて、ここから地上誘導したりするところ)から、指示がくる。
  足がつかない感じで、指示に従う。
  滑走路がどんどん近づいてくる。
  グライドパスは、良い。
  速度も、保持している。
  問題は、返し操作だ。
  パワーを絞り、返す、沈む、返す、沈む。
  モーボから「そのまま」の指示が飛び込む。
  その瞬間、無事地上に接地。
  涙の一瞬であった。

  ソロ後の教官の飛行後ブリーフィングは厳しいものがあったが、これが私の単独飛行であった。


10 第2初級操縦課程(芦屋)
(12.1.30)
     
  静浜の課程も無事終えて、次は芦屋の第2初級操縦課程であるT−1ジェット練習機だ。
  コマンダーは、松田3佐、航学の大先輩だ。明るい人柄で、我々74−Bのコースが何度救われたことかと、感謝している。
  課目はCP(空中操作)、IF(計器飛行)、FN(編隊飛行)等がある。T−3課程の時は、体験程度の編隊飛行は、編隊単独で編隊離陸及び上空の編隊までの技量が求められる。編隊飛行が山場であった気がする。
  T−1は、ジェット機であり、加速、速度、訓練高度等、T-34との性能差が大きい。手順を行っているうちに、飛行機が先に行ってしまっているという感じであった。
  我々74−Bは、コース始まって以来のへたくそコースと言われながらも、卒業まで無事切り抜けてしまった。これも、コマンダー及びアシコマ、ヘルプの教官のおかげである。

  芦屋の町へは、週末ごとに出かけた。
  コロンビアは、行きつけの喫茶店だ。おばさんと娘さんが、何時もいてホットする時間をもてる住処だった。同期の板井は、コロンビアの「みっちゃん、みっちゃん」とよく話していた。
  先ず、外出するとコロンビア、そしてパチンコ、夜になると、それぞれのスナックへ発散していく。
私は、コロンビアの近くのニュールビーというスナック通いをしていた。スナックと言うよりバーに近いかもしれない。夜遅くなると泊めてもらい、朝食をよくごちそうになった。
  芦屋は、遠賀川の河口にある町で、川筋もんと呼ばれたやくざの人たちが多いと言われている。ニュールビーのママさんは、当時60歳台のひとで、その旦那さんは、その筋の人のような感じを受けた。朝食をごちそうになるときは、その旦那さんと一緒に食事をすることになったが、結構会話が弾んで楽しかったニュールビーへは、同期の沖本などとよく一緒にいった。店員の姫さんが目当てであった。姫は、当然結婚していて旦那さん、子供さんがおられた。
  芦屋の町の他は、折尾、黒崎へ豚骨ラーメンを食べに出かけた。小倉にも1ヶ月に1回は出かけていた。


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11 基本操縦課程
(松島)
(12.2.5)
              
  芦屋のコースも無事終了し、基本操縦課程(T−33)のため松島の第35飛行隊に移動となった。当時、新幹線はなく、東北本線を7時間ほどかけて仙台、そして仙石線に乗って、矢本まで到着した。塩釜をすぎて、徐々に家々が少なくなり、松島海岸、野蒜を過ぎると田圃の中にポツンと矢本駅があった。
  松島基地に着くと、第35飛行隊の我らがコースのコマンダーは福田3佐であり、飛行班長は井沢3佐、飛行隊の雰囲気は、井沢親分を中心とした、井沢一家とでもいうまとまりのある飛行隊であった。74−Bのコースメンバーは、学生長が水島、その他に、池田、板井、菅原、御厨そして見田学生であった。
  新しい学生が、飛行隊に着隊すると、朝礼時に学生紹介があり、自己紹介する。
  「新潟県出身、見田学生です。趣味は読書、新発田の田舎から来ました。」
  なぜか新発田の田舎でドッとうけた。
  あとで、教官の倉島1尉がこられて、
  「何だ、お前、新発田の田舎?、何で新発田は田舎か」
とお叱りを受けてしまった。
  なんと同じ新発田高校出身の先輩であった。

  課目は、CP、FN、IFと同じ課目であるが、T−33は難しい飛行機で苦労した。
FN(編隊飛行)時のスプレッド・フォーメーションの課目がある。横幅は800〜1000フィートで20〜40度後退し、概ね1機長スタックダウンする位置を保持する。リーダー機が90度旋回すると、2番機は、右から左へ、左から右へ反対側へ位置を変える。
  私は、この課目が全然出来なかった。1000フィート(概ね300メートル)もリーダーが離れればリーダーの細かい動きなど解らないのである。教官から「ほら近づいている。」、「前へ出ているだろう。」
と言われても、感覚的に動きが見えなかった。従って成績も低空飛行を飛んでいた。
  成績は、5段階評価で秀、優、良、可、不可である。普通は良であり、最高にうまくいっても優である。へまをすればたいていは、可であり、危険操作及び全くの技量無なければ不可である。1回の飛行訓練ごとにこの成績は、教官によって書き込まれる。不可の場合は、ピンクの用紙に書かれるためピンクを取ると言えば、成績が不可のことである。
  ピンクを2枚連続して取れば、プログレスチェックを行い、現在の技量レベルがあるか判定されれば、通常どおりの課程に復帰できる。この検定に不合格となれば、エリミネーションチェックを実施する。今後この課程をやっていける技量を有するかどうか判定し、パイロットが無理と判定されれば、パイロット学生は免となる。今後はパイロットとしての道を絶たれることになる。
  大西教官と飛んだときである。
  「パワーと機高差を先ずあわせよ。」と教示していただいた。
  そして、飛行機を動かさなければ、リーダーに対して、自分がどのように動くか見えるはずだと展示していただいた。目から鱗が落ちたように、スプレッドフォーメーションが徐々に出来るようになった。
  学生は、天才的にうまい奴で無い限り、常にパイロット免が頭の中にプレッシャーとしてある。このときもこのままうまくいかなければ首だろうなと覚悟していた。
  しかし、ある日突然、自分の人生は、ちょっとやそっとで、180度変わってしまうはずがないと、なぜか確信みたいなものを覚えた。それからは、おどおどもせず、決して順調ではなかったが、パイロットの道を進むことが出来た。
  フライト以外では、駆け足、サッカー、バレーボールを行った。コース別対抗である。教官チームには、なぜか絶対勝てなかった。他のコースにも何回も負けていた。74−Bは、団結が強かったが、私を筆頭に、足を引っ張っていたよう気がする。パイロットは運動神経抜群の人が多いが、運動神経が普通以下でも、立派なパイロットが多い。最終的には、戦闘場面で能力を発揮することが要求されるが、全人格的な能力との勝負に勝つことが、パイロットとしての生き残りの道である。
  基本操縦課程を修了し、晴れてウイングマークを受領した。パイロットの一歩をようやく踏み出した。


12 戦闘操縦課程(松島) 
(12.2.26)
  ベーシックを卒業し、隣の7飛行隊にFC課程(戦闘操縦課程)に入校だ。
  コマンダーは、森垣1尉(当時)機種は単座機のF-86F戦闘機である。
  コースメンバーは、御厨が救難隊のMUへ行ったため、水島、池田、板井、菅原、そして私
  先ず、飛行機の勉強は、F−86FのTO−1(通称ダッシュ・ワンと呼ばれる。)で勉強する。
  当時のTO-1は、全部英語で書かれていた。辞書を片手にでは、時間がいくらあっても足りない。
  最終的には、先輩コースが必ずいるので、ポイントだけを聞いて、最小限の理解を得ていく。
  勉強時間がいくらあっても足りないのに、松島は別名、体育学校と呼ばれたほどで、飛行訓練が3時くらいに終わると、基地一周(約11キロ)走り、それからサッカーの試合(学生対教官)で、負けると100メートルダッシュ10本と行った具合である。
  体と頭を鍛えてもらいながら、いよいよ初飛行である。
  単座機であり、最初からぶっつけ本番、神様!仏様!の世界である。
  スロットルを100%にし、離陸滑走、そしてエアボーン。
  空中にあがってしまえば、あとの操縦は、特性こそ違え、皆同じ。
  バックミラーに映るのは、青い空だけで、時々教官機がちらちら映る程度である。
  いよいよ帰投し着陸だ。
  360度オーバーヘッドパターンで着陸する。
  飛行場上空で、スピードブレーキを下げ、2Gでピッチアウト
  ダウンウインドでギアーダウン、フラップダウンでベースターン開始
  無線で教官機から適切な助言が入る。
  ファイナルにロールアウトし、滑走路にアラインする。
  スピード、パスを調整しながら、エイミングポイントにまっすぐ進入する。
  1回目は、ローアプローチし、2回目に挑戦だ。
  いよいよ次はフルストップだ。
  チェス機の教官から、まるで後席から見ているような適切な助言が入る。
  「はいっ!」と返事しながら、修正操作をしながら、着陸進入続行だ。
  ファイナル2マイルくらいで、チェス機はゴーアラウンドし、モーボの教官がアドバイスを代わる。
  ファイナルを安定させ、滑走路のオーバーラン上を通過、滑走路エンド通過後からいから返し操作開始だ。モーボのグッドランディングのアドバイスを聞きながら接地した。
  無事に地上に生還した一瞬である。  

(12.2.27)
  この辺で、学生の一日を紹介したい。
  0600 起床し 上半身裸体で 隊舎前に集合。
  日朝点呼し 全員で約1.5キロを 大きい声をかけながら駆け足。
  公共場所及び自分の部屋を掃除し、朝食を食べる。
  7時過ぎには、飛行隊へ出発。
  飛行隊モーニングブリーフィング
  内容は、気象ブリーフィング、エマーブリフィング、航空機の特異故障状況及び飛行班長、隊長からの注意事項等がつづく。
  その後、各コースに解れ、コマンダーからの注意事項等の話があり、飛行準備となる。
  学生は概ね一日1回の飛行教育がある。
  離陸時間の約1時間前に担当教官の飛行全ブリーフィングを受ける。
  飛行教育を効果あるものにするためには、最低限知識があるかどうかである。
  教官は、本日のフライト課目のポイントを飛行前のこのブリーフィングに確認してくる。
  ポイントのずれた勉強をしていると、この段階でブルーな一日となってしまう。
  脂汗でびしょびしょである。
  30分前に救命装具をつけ、飛行機のまつランプ地区へ移動する。
  外部点検、内部点検、エンジンスタートし、教官のコールインを待つ。
  教官機と連れだって、地上滑走、離陸、上空課目と約1時間訓練し着陸する。
  訓練が終了し、飛行後ブリーフィングが始まる。
  精神論から、技術論まで30分から1時間とブリーフィングを受ける。
  概ね3時くらいから地獄の体育訓練が始まる。
  先ず、基地1週し、その後サッカー試合、終わってから100メートルダッシュ10本で終わる。
  くたくたになっても、夕食は一番の楽しみだ。
  風呂に入りさっぱりしたところでコース全員が集まり反省会だ。
  みんなが自分の反省を包み隠さず告白する。自分の失敗を他の全員が共有し同じ過ちをしないためだ。結構これが役立つ。自分の経験は多くできないが、全員の経験は結構大きい。
  それから、明日の飛行のための準備事項を勉強する。9時からフリーの時間があり、10時には消灯ラッパがなり、お休みなさいで一日が終わる。
 
(12.3.4)
  土曜日の午後から日曜日にかけては休養日。
  同期の板井君は、矢本町にある福寿司に行き浸りで、土曜日の夜は泊めてもらい、朝ご飯をごちそうになり帰ってくるパターンであった。私たち同期も、比較的頻繁に、板井君と同行動をした。
  福寿司の親父さんと女将さん、それに息子が小学校ぐらいだったが、現在は、小学校の息子さんが寿司屋の親父さんをやっている。
  休みは、必ず外出した。とにかく自衛隊の外に出て、発散しないとプレッシャーでつぶれそうになる。たまに仙台で、石巻が多かった。石巻の市内に、「むさし」という飲み屋があった。女将さんが山形出身で、マスターは、石巻の出の人である。店が終わると、店に一人泊めさせてもらい、次の日曜日自衛隊に帰るパターンが多かった。
  花見があった。太陽が黄色く見えて、ひどく酔っぱらった。全く記憶にない。次の日ベットから起きると、吐瀉物で枕の周りが汚れている。片づけて、飛行隊の朝礼に出たが生あくびばかり出る。ひどい二日酔いだ。コマンダーにお願いしてベッドに寝た。土曜日でフライトはない。10時くらいにコマンダーにたたき起こされて、これから基地一周するという。気持ち悪いしとても走れない気分である。同期全員でゆっくりマラソン開始である。基地一周の終わりに近づいてくると、体も元に戻ってきた。若く普段鍛えていないとこんなことは出来ないと思う。
  
(12.3.11)
  そんな中にあり、飛行教育は続く。
  空中操作、計器飛行、編隊飛行が終わり、戦技の要撃戦闘、対戦闘機戦闘、バンナー射撃が始まった。
  戦闘機戦闘は、ACMと呼ばれるもので、戦闘訓練の基礎の教育を受けるものである。
  ハイスピードヨーヨー、ロースピードヨーヨー、バレルロールアッタックなどを訓練する。
  バンナー射撃は、バンナーと呼ばれる標的を、T−33が曳航し、これに対し、射撃するものである。4機編隊で、一つの標的を、インディアンアッタクのように、順番に射撃する。バンナー射撃をするためには、今まで習った課目を全部使用しなければ飛行できない。標的周りを上昇降下旋回する空中操作、4機での編隊飛行、射撃するときの微妙なコントロールは計器飛行、標的と空中集合するためには要撃戦闘、標的の後方を追尾する対戦闘機戦闘である。
  最初のバンナー射撃で、我がコースは、ミッションにならなかった。チームワーク不足と勉強不足である。結果は、全員坊主頭である。当時は坊主頭の人もたまにはいたが、チームで町に繰り出した坊主頭集団は、やはり異様だった。
  途中コマンダーの森垣1尉のSOCの入校のため、佐伯3佐に変更になった。佐伯3佐は、静かな人だったが、すごい人であった。
  我々が訓練のため、滑走路手前で待機しているとき、T−33がテストミッションでエンジンが不調でエマージェンシーをかけて降りてきたときがあった。前席が佐伯コマンダーだある。エンジンの推力が使えないので、滑走路の1/3くらいを接地するようにめがけて着陸進入する。手前すぎて滑走路に届かなかったら、クラッシュしてしまうからだ。滑走路端で待機している我々からみると、通常の進入パスよりかなり高いところを進入してきた。完全に滑走路内に着陸接地できると判断されたところから、佐伯3佐は、すごい技を使い、通常接地するところ付近に難なく接地させ、ヒットバリヤすることなくランウェークリアしてしまった。
  高いパス進入しながら、途中でラダーを使用し、横滑りさせ、接地させたのである。すごい教官であった。
  飛行班長も、古武士のような人で、尊敬していた大勢の教官の一人であった。
  最終検定は、飛行班長であったが、「お前は下手だから、これから部隊にいっても、精進努力を忘れるな。」と言われた。今でもそのつもりで、精進努力をしている。


13 第8飛行隊(小牧)
(12.3.26)
  昭和50年、愛知県小牧市にある第3航空団第8飛行隊に赴任することになった。不安と希望に胸に、同期の河端候補生とともに着任した。
  隊長は、大中2佐、飛行班長は、福井3佐だった。早速、TR訓練を開始した。TRとは、Trainingのことであり、戦闘機パイロットとしての、訓練段階を言う。TR訓練終了し、OR(Operational Ready)となりアラート勤務をWing Manとして就くことが出来、その後、Element Leader、Flight Leaderと各段階を上っていくことになる。
  訓練課目は、空中操作、計器飛行、と言った基礎科目から、要撃戦闘、対戦闘機戦闘、射撃等の訓練を実施してTR訓練が続いた。
  学生時代と戦闘機部隊での訓練の違いは、訓練内容が高いと言うことと、言われてフライトの勉強をするか、自律のもと勉強するかである。遊びも勉強も自分次第である。
  TR訓練で、先輩の指導が重要な働きをもつ。日常の生活、訓練を通して、パイロットのあり方等を厳しく指導していただく。航学25期の酒井さん、小坂さん、26期の岩崎さん(ロック岩崎)等から愛情ある指導を、ビシビシいただいた。
  
  この期間内に、幹部候補生学校(奈良)に3ヶ月ほどの入校があり、一番鼻の高い時期を、肩で風を切るように勉強に訓練に励んだ。奈良の比叡山にも心の修行に行った。
  
  TR訓練を終了し、アラート待機に就くようになり、最初のスクランブルの時は、足ががたがた震えた。上空に上がってしまえば落ち着いて、訓練のようにリラックスして任務を遂行した。
  しばらくの間は、ソ連の航空機を見ることが出来なかったが、バジャー、ベアという航空機を発見、識別し、監視任務を実施する事ができた。
  ある日、アラート勤務で、スクランブル発進し、上空での任務終了し、帰投するときの話である。小牧の滑走路を北から進入していた。滑走路端は見えるが、2/3以上の滑走路が、大雨で見えない。
私は、リーダー機の横の、2番機位置にいた。このまま編隊着陸をし、その直後、大雨の中に突っ込んだ。一瞬雨のため、視界がなくブレーキも効かない。気がついたら滑走路から逸脱しそうである。ラダーを使い、方向保持に努めながら、横のリーダーだけは見えるので、リーダーを見ながら無事停止し何事もなくエンジンを停止することが出来た。事故になるかならないかは、紙一重である。この紙一重の差は何なのか思わず考え込んでしまった。

  隊長が出口2佐に代わり、飛行班長も篠田3佐なった。
  この頃、紆余曲折があったものの、結婚した。
  結婚式は、新発田で行った。仲人は、実家の家の近くの相馬様にお願いした。同期の河端、板井君と佐藤先輩に来ていただいた。今の結婚式と違い、挨拶が済むと、後は飲めや歌えやの世界で結婚式も終わり、新婚旅行は北海道の道東方面であった。まさか次の勤務地が千歳とはこの時は予想もしていなかった。

  新婚の生活は、2軒長屋の2間だけの官舎生活から始まった。独身の時は、しばしば新婚さんの家に遊びに押し掛けたが、逆の立場になった。夜中に目を覚ましたら、目の前に同僚たちがいたことも多々あった。同期の寺尾も来ては、茶碗蒸しが食いたいといっていた。

  8飛行隊は、ジプシー飛行隊で、小牧から三沢に移動することになった。隊長からF104に行きたい奴はいないかと言われ、すぐに手を挙げた。Element Leaderをさせていただき、飛行隊が引っ越し準備に忙しいとき、新田原の機種転換課程に入校し、晴れて卒業、8飛行隊が、三沢に移動する日に見送って、次の赴任地千歳の203飛行隊に向かうことになった。

  我が愛車のことを付言しておきたい。最初の車は、ホンダの1600空冷式である。同期の矢部から買ったものである。よく走る車であった。故障が頻発するようになり結婚後は、中古のシビックに替えた。結婚は、借金してしたほどで、お金はほとんどなかった。いい車はとんでもない時代でもあった。車に関しては、下駄代わりであればよいと思っていた。
 
  
14 第203飛行隊(千歳)
(12.4.16)
  昭和53年春、小牧から千歳へ移動した。名古屋港からフェリーで仙台まで行き、陸路を青森の野辺地まで行った。青函連絡船で、函館か室蘭まで行き、千歳に到着した。
  千歳の町は、雪解けの季節で、道路がスパイクタイヤの粉塵で、黒々していた。
  官舎は、ブロック造りの1軒屋で2間だけの小さな家であった。二人には十分な広さであったが寒い家でもあった。この年の冬まで過ごしたが、雪は窓から入るし、押入の中を開けると、中は冷凍庫の中のように氷が厚くへばりついていた。
  F-104は、スピードを追求した最後の有人機といわれたすばらしい飛行機である。翼が極端に小さく、エンジンの推力だけで飛ぶような飛行機である。着陸スピードも今までの戦闘機の1.5倍ほど速く200ノット(360km/h)で進入する飛行機である。
  エンジンが止まれば即、墜落すると言われており、飛ぶだけで神経を使っていた。
  当時の第207飛行隊は、戦技競技会で優勝をしており、飛行隊の雰囲気は、自信にあふれていた。同期には、藤川、細川3尉がいた。
  飛行訓練は、厳しいものがあった。天候も厳しく、何日も飛べない日も続いたりした。
  冬のアラート勤務では、耐水服を着た状態で待機につくため、当時の耐水服は、ゴム地で内側が汗で濡れるため、快適ではなかった。
  千歳で長男が生まれた。完全看護ということで、実家に帰らずに出産した。
  初めての子で、試行錯誤の子育てであった。よく病院に駆け込んだりした。
  子どもを連れて、良く支笏湖や札幌の動物園へ行った。
  仕事以外でも、いろいろな活動をし始めた時でもあった。書道、陶器制作をやった。このような活動を通じて、自衛隊以外の人とも知り合うチャンスを得た。
  概ね3年で、静浜の教官に異動となった。


15 第11飛行教育団(静浜)
(12.4.21)
  F-104からT-3に変わり、第1初級課程学生を教える立場になった。学生で教わった静浜で、教官という教える立場になった。
  教官操縦課程に入り、教育法の基本から学んだ。教える事が、自分の勉強になることが分かった。教官課程を修了し、学生と飛行することになった。
  第1初級操縦課程の学生は、初めてここで飛行訓練を始める学生で、何も知らない。いわば箸の上げ下げから教育することになる。非常にやり甲斐のある仕事であり、学生教育が楽しくなった。
  また、F−104で飛行訓練していたときは、飛行することに非常に神経を使ったが、T-3レシプロ機は、墜落しても生き残れる安心感があり、楽しんで教育ができた。
  ただ、怖いのは、学生である。何をするか分からない怖さがあった。
  教官の成り立てで、学生訓練をしていたときである。学生を2人担当していた。スロットルを上空で絞ると、危険ですよというシグナルの音が鳴るようになっている。課目のなかに、スロットルを絞る課目があり、音がうるさいので、ホーンカットというボタンを押すと、音が鳴りやむようになっている。私は、音が鳴り始めたので、アイドルカットを切れと指示し、学生はホーンカットを切って課目を続行した。次の違う学生の訓練の時も同じ状況にあり、「アイドルカットを切れ」と指示した。
  素直な学生で、ホーンカットでなく、アイドルカットを切ってしまった。アイドルカットスイッチは、エンジンを切るスイッチで、上空でエンジンが止まってしまった。
  比較的低い高度で、3000フィートくらいである。瞬間的に頭の中に、走馬燈のごとくいろいろな回想がくるくる回った。明日の新聞で自分の乗った飛行機が墜落した新聞記事が最初に浮かんだ。
  エンジンの始動は、前席でしか出来ない。教官は後席に乗っている。学生は飛行機に乗って、単独飛行に出ていない、数回乗ったばかりの学生である。エンジンの止まったことすら認識していそうもない。怖がらせないように、学生に言った。
 「エンジン空中始動手順をするぞ。」
 「はい」
 「よし、まずチェックどおり、スイッチのオン、オフを確認だったな。」
 「はい」
 このように、スイッチを順番に確認していき、アイドルカットスイッチになった。
 「アイドルカットスイッチをオンにしろ。」
 「はい」
 スイッチを入れたとたん、エンジンが息を吹き返した。
 「では、これで帰るぞ。」
 「はい」
 後席では、心臓がドキドキするし、体は震えるし、しばらく言葉がでなかった。
 この学生は、操縦で全神経を使っており、事の重要性を認識していなかったのではないかとこの時は感じた。
  教官の成り立ての笑えない失敗である。教官が悪いのであり、学生は教官の指示に従ったまでである。

  航空学生29期から、航空学生教育隊が15ヶ月から、2年生になった。ウィングマーク取得で、運輸省の事業用操縦士資格が取得できるようになった。27期の私は、事業用操縦士免許を持っていない教官であった。そのため教官期間中に、事業用操縦士免許と教育証明を取るべく、勉強を始めた。
事業用操縦士の学科試験及び実地試験に1年、教育証明の学科試験及び実地試験に1年、合計2年を費やした。この間の勉強で、教官としての知識を基礎から勉強できたような気がする。技術だけの教育だけでは、限界があり、心も鍛えて、学生は順調に進歩していくことを確信した。このためには、自分のパイロットとしての生き方、考え方を事業を通じて、飛行訓練を通じて教導したつもりである。とにかく教官時代を通じて、自分の勉強になった事は確かである。

  静浜では、周りは田圃と養鰻場の池が多くあり、長男も順調に成長し、長女も静浜で生まれた。

  一緒に転勤してきた大先輩の楯3佐にはお世話になった。防大の野球部出身で、駆け足がとにかく早かった。楯3佐がコマンダーで私がアシコマのコースを持ったとき、静浜から御前崎までの二十数キロのマラソンを計画した。到着したら御前崎で宴会の計画である。学生の一人が、18キロ過ぎに遅れ始めたので、私が伴奏につくことになった。皆から距離がどんどん離されるだけである。学生を引っ張りながら走ったが、すぐに私の方がバテてしまった。学生には先に行ってもらって、走ったが到着までの長いことと言ったら。あとで御前崎で美味しい酒を楯3佐と学生共々で味わった。


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16 第207飛行隊(那覇)
(12.5.13)

  昭和57年沖縄の207飛行隊に異動した。機種はF−104である。F−104は古くなりフェードアウト直前であった。
  レシプロからハイスピードのF104への移行では、最初速度についていけなかった。例えば旋回の感覚がT−3では、ここで回れるのに、F104では、意図した旋回半径より遙か向こうまで行ってしまう感覚であった。
  沖縄には、嘉手納に米空軍がおり、F−15の飛行隊と日米共同訓練で、異機種戦闘機戦闘訓練を数多く実施した。F−15飛行隊(米軍)のパイロットは、比較的飛行経験が若く、207飛行隊のF104のパイロットは比較的飛行経験が多かった。性能的には比較にならないほどF−15が高いが、F104の一撃離脱戦法と、パイロットの経験の多さで、たまに撃墜することが出来た。

  207飛行隊在籍中にSOC(幹部普通課程)に入校した。
  5月から8月までの約4ヶ月間、東京の市ヶ谷でSOC学生として教育される事になった。
  講義、レポート提出、討論、机上演習等のため徹夜する事もあったが、東京の夜も楽しんだ。
  航空自衛隊は、普通田舎に位置し、田舎者が多いため、東京での生活は刺激的である。
  SOC学生の中には、この期間中に、うん十万円使う者もいる。
  我々仲間で、六本木に遊びに行こうと言う話になった。
  当時、カフェバーがはやりであったが、誰もそんなところに行ったことがない。
  6人ほどで集団で町を歩くが、どこがカフェバーか分からない。
  その内、一人が女性に声をかけた。
  「カフェバーはどこにあります。?」
  あとの5人は、恥ずかしくて、蜘蛛の子を散らすように離れ、遠くからこのいきさつを見守った。
  カフェバーの場所を聞き終わった頃、皆また集まり、そのカフェバーに行った。
  雰囲気がよく、ほとんどが同伴で、静かにお酒を飲んでいる中に、6人が陣取り酒を飲み始めた。
  店は、きれいだし、いい雰囲気の中、異質な6人が楽しく酒を飲むことが出来たが、
  私は六本木は合わないと思った。

  飛行隊では、お父さんが職場でどんな仕事をしているのか家族に見せるため家族の職場案内を実施した上の写真は、そのときのものである。


17 第22飛行隊(松島)
(12.6.3)
  昭和61年3月第207飛行隊は解散し、沖縄の任務は北海道千歳にいた第302飛行隊が任務を引き継ぐことになった。第207飛行隊のメンバーは、F15へ転換するが、私は一足早い昭和60年10月に松島のT−2の教官として転勤となった。
  松島基地の第4航空団では、21飛行隊と22飛行隊があり、戦闘操縦課程の教育を行っている。飛行操縦は、フェーズT課程のT−34(T−3)教育を終了し、フェーズUのT−1、ベーシックのT−33(T−4)でウイングマークを取得し、松島の戦闘操縦課程で、戦技の基礎を学ぶ。その後、戦闘機部隊に配属される。戦闘操縦課程の教育内容は、空中操作、計器飛行、編隊飛行等の前段を終了すると、要撃戦闘、対戦闘機戦闘、バンナー射撃、戦闘航法等を行う。また21飛行隊には、戦技研究班のT−2ブルーインパルスがあり、飛行場上空で、ブルーの訓練を実施していた。
  要撃戦闘では、目標機に対して、警戒部隊のレーダーに誘導され、後方占位する。地上のレーダーから言われたとおり、飛行すればいいだけだが、途中自分のレーダーに映し出し、後方に占位するためには、結構難しい課目である。
  対戦闘機戦闘は、いわば空中戦の練習である。ハイスピード・ヨーヨー、ロースピード・ヨーヨーはじめ、バレルロール・アタック等の基礎を実施後、1対1のフリー戦闘を実施し、その後編隊戦闘に移行する。編隊間の機動として、クロスターン、インプレスターン、タックターン等を駆使し、2機で1機を追いつめていく。
  バンナー射撃は、標的機が標的(バンナー)を曳航し、これに20ミリ弾で射撃訓練を実施する。当時はT−33でバンナーを引っ張っていた。バンナーは6フィート×30フィートほどの大きさである。これを約1000フィートのワイヤーで引っ張る。速度は概ね165ノット高度15000フィートで曳航する。これに対し、4機のT−2で順番に進入し、射撃する。4機の各位置は、標的機を基準として概ね次の様になる。1番機が標的の後方10度から25度、約1000フィート、速度400ノットで射撃する。この時2番機は、キーポイントと言われる10度後方約1マイルに位置し前方機が射撃終了し、オフ(離脱)したらレーダー・ロックオンできる位置にいる。3番機はパーチと言われるほぼ標的の真横から若干後方で4000フィート高い位置で距離は3マイルにいる。その後降下旋回で標的機に向かって旋回していく。4番機は射撃終了し標的の後上方をぶつからないように避けた後、標的機の真横を通過し、その後上方旋回を実施しパーチ位置に移行するため、クライミングリバース(旋回切り返し)の位置にいる。この流れのなかに次々に射撃を実施していく。このバンナー射撃は、空中操作課目、編隊飛行、計器飛行、要撃戦闘及び空中戦闘のすべての要素を総合した課目であり難しい課目である。しかし学生でも100発の弾を持って上がって、30発くらい当てる学生もいる。教官になると60発以上あてる名人が数多い。弾の先にペンキで色を付けている。レッド、ブルー、パープル、イエロー、ライトグリーン等のペンキが標的にあたると、そのあいた穴にペンキがつき、誰が何発当てたか識別できる次第である。
  教官課程を修了し、教官となり学生教育し始めた頃、松島の滑走路工事のため、22飛行隊は、小松に移動訓練することになった。21飛行隊は、九州の築城基地であった。昭和61年春から約半年の移動訓練であった。
  石川県の小松飛行場への移動訓練が始まった。学生も教官も整備員も隊舎での生活である。これから半年間、家族と離れて生活だ。小松基地は、離陸すると日本海の大きな訓練エリアがあり、非常に訓練効率の良いところである。一線部隊の2つの飛行隊も同じ基地に訓練をしており、学生も教官も目を輝かして訓練に励んだ。飛行隊の位置はランプの外れの旧ランウエー上であった。訓練を終わると、基地内の松林の中を駆け足をして体を鍛えた。
  小松の飛行隊出身の斉藤先輩に連れられて、小松の町に食事に出かけた。「ブルドック」という店に入った。婆ちゃんと倅さんが店をやっているところで、食事を出してくれる。お客さんは、単身赴任者が多く、また倅さんの地元の仲間が主なる客層であった。休みの日は、この店にいることが多かった。
  飛行隊の花見を小松市内の図書館のある公園で実施することになり、私が場所取りをした。午後に場所取りに出かけたが、すでにめぼしい場所は確保されていたが、真ん中に大きくあいている良い花見場所があったので、そこを確保し、仕出しを豪華に酒も準備した。仕事が終わり、飛行班のみんなが集まった。夜桜での宴会が始まる頃は暗くなり、豪華な食事がまるで見えない。我々の場所は、周りの電気の中心部で、電気の明かりが届かない場所であった。
  休みの日は、他に山に山菜取り、イワナ釣り、白山登山、富山までの剣岳登頂等いろいろ楽しんだ。
  22飛行隊時代は、勉強に励んだ時代であった。自衛隊には、幹部を試験で選抜し、一年間、幹部学校の指揮幕僚課程に入校させ人材を育てる自衛隊キャリア制度の様な物がある。22飛行隊時代は、その受験資格のある年代に達していた。4回の受験チャンスがあり、残りの3回、1次試験(論文課題)合格するのだが、2次試験(面接、討論等)には、どうしても合格できなかった。不合格になると自分は、自衛隊には必要とされない人間だと考えてしまいがちとなる。ショックであった。時間が経つと、試験ばかりが人生でないとまともな考え方が出来るようになるが、それが3回も続いてしまうと、自分がだめ人間になったような気がした。しかし、この間勉強した事は、今から考えると自分の人格形成に影響を与えた。津久井隊長、上田隊長、河村隊長を始め重永群指令、団司令からご指導を頂いた。また、自分の考えを言葉で表現することの重要性とそこに自分のウィークポイントがあることも分かった。言葉での表現は、表面的な知識だけではできないし、自分のものとなっていなければ、人に感動と、理解は得られないと言うことである。
  昭和63年に二男が誕生する。人間的に成長(年をとった)したせいか、長男には厳しく育てたが、かなり甘くなっていた。そのせいか、逆に長男、長女から、二男がいろいろと指導を受けていたようである。学生から本気で「お孫さんですか?」と言われたことがあった。
  平成となり、上田隊長時代、飛行班長に任命された。この私がという想いと重責に身の引き締まる思いを感じた。森本群司令からも、飛行班長はオペレーションズオフィサーであり、作戦面、学生教育面、飛行安全、副指揮官としてキーマンであり心して頑張るようご指導を頂いた。
  松島飛行場は、天候の厳しいところである。冬の雪と台風並に吹く横風、春から夏にかけての海霧である。
R/W方向は、07−25であり、冬の横風は、強いときで330度方向から30から40ノットの風が吹く。北西の風15m/秒〜20m/秒の猛烈な風が、午前中のから吹き始め、午後2時頃最高潮になる。この合間を縫ってT−2の学生教育を実施しなければならない。T−2の横風制限は、真横の25ノットである。通常R/W25の進入を170ノット前後の速度で3度のパスで実施している。横風制限内での着陸のためのアプローチを紹介すると以下の様になる。滑走路と飛行機の軸線をあわせると、横風のため、飛行機は風下へ流されてしまう。そのためウイングロウメッソドかクラブアプローチを行う。ウイングロウ進入は、翼を風上側に傾けて、傾けると傾いた方に旋回するので、旋回しないように反対のラダーを使い、滑走路に軸線を合わせて進入する方法である。この方法は、接地時に、滑走路方向と脚の方向が一致しているので接地時の脚のダメージがない。ただしラダーを使うため、抵抗が大きく降下率が大きくなるためパワーをより多く必要になる。次にクラブアプローチであるが蟹の横歩き進入である。風上側に機種を向けながら、航空機は滑走路の延長上を進入する方法である。この方法は、高翼面過重のT−2でも比較的簡単に出来る。接地時に滑走路方向と脚の方向がずれているため、脚に横方向の過大な力が掛かり脚が壊れる事態になりかねないが、T−2の脚は横方向の接地に対して構造上丈夫に作られており、横を向いたまま接地しても大丈夫である。ただ余裕があるときは、接地直前軸線を滑走路方向に合わせる操作を行う。T−33では、ウイングロウメソッドを使用し、T−2ではクラブアプローチで着陸を実する。着陸後も大変である。、飛行機は接地前は風にながされる方向に行こうとするが、尾翼に横風が影響し、接地後は、風上に向こうとする。そのため、前輪を接地させ、前輪で方向操作を実施し、滑走路からはみ出さないように操縦しなければならない。また風でひっくり返らないように、風上側に、エルロン(T−2はスポイラー)を使わなければならない。風上側のスポイラーは、風上側の抵抗を大きくするため益々風上側に向こうとする。その後ドラッグシュートを使い制動する事になるが、T−2の尾翼後方から落下傘を広げ制動するがこの落下傘も横風のため風下に流されこの影響で、飛行機は益々風上側に向こうとする。方向保持は前輪の小さな車輪だけで行い滑走路を逸脱しないようにまさに頑張っている。あまり風が強いときは、制動傘は使用しない。方向保持できなくなるからである。この制動エネルギーは、すべてタイヤに負担がかかり接地の時の横への過重等により、新品のタイヤでも数回と持たないことがある。
  横風を越えるようなときは、R/W33の使用により着陸した。滑走路は短いが、この方向の滑走路は風と正対して、着陸滑走距離も短くてすむためである。
  春から夏にかけて海霧、シーフォッグが発生し、飛行場を包み込んでしまう。これは海で発生した霧が、石巻湾から飛行場に流れ込むためである。このため天候を監視するため航空機を上げ、常に監視しながら操縦訓練を行わなければならない。
  当時は教育する学生数も多く、教官は一日3回、時には4回とフライトを実施した。運が良ければモーボ、地上指揮員として、飛ばないピリオドがある程度である。一日が終わり家に帰るとバタンキュウである。

  いろいろなトラブルも経験した。22飛行隊時代にあった事故を紹介する。
  T−33で飛行中、キャノピーが飛んでしまった事故。この時降りてきたパイロットの目が風圧で真っ赤になっていた。
  学生前席で、一人ベールアウトし、そのロケット推進の火力で後席キャノピーが磨りガラス状態となり、教官は編隊飛行の2番機位置で着陸した事故。学生は救難隊に直ちに救助され、事なきを得ている。
  一番残念な事故は、T−2ブルーの2機が海面に激突した件である。式地君、浜口君が亡くなった。ブルーの訓練は、飛行場上空と、宮城県金華山沖に実施している。この金華山おきで事故は起きた。6機のデルタ隊形を2機欠の4機で訓練していたとのことである。その内の2機(式地機、浜口機)が海面に激突したものである。残念な事故であった。


18 UF104部隊(硫黄島)

  転勤は、私を使ってくれるところがあれば、どこでも行きますと公言していた。
  ヒジツに調整があるんだが行くかとの隊長からの打診があった。
  行きますが、何をするんでしょうかとの話に、硫黄島で無人機運用をするとの話。
  岐阜の飛行開発実験団に平成3年8月、単身赴任することになった。
  F104を無人機にして、これを標的にして、ミサイル等の研究を行うことを目的にしている。
  岐阜での半年、この無人機(UF104)の実用試験に少し係わり平成4年4月から硫黄島での生活が始まった。
  硫黄島で、臨時無人機運用隊(UF104)が編成され、UF104の運用試験を2年間行うことになった。
  私の中では、F104の部隊は沖縄で最後となり、日本において、飛べるF104はないと思っていた。このF104に乗れと言う。副座型のF104はないので、エンジンをかけて飛んでこいと言われても、大昔にF104を乗っていたが、感覚がついていけないことが明白である。
  手順をもう一度勉強し、エンジンをかけ、祈るような気持ちで離陸のためエンジンをミリタリーまで上げる。ブレーキを離し、アフターバーナーに点火する。すぐに上空の人となってしまった。上がったからには降りなければならない。離陸してしまうと、感覚がすでにF104のパイロットだ。何の不安もなくなっている自分に驚いてしまった。F104はこんないい飛行機だったのかと思いを新たにしてしまった。30数年前の技術の粋を集め作られたスピードと加速性能を極限まで追求したこの飛行機は、スピード、加速に関しては今でも輝いている。
  そんなこんなで、硫黄島の生活がはじまる。

  F104の無人機化の是非を考えると、一般論から言えばあまりにも難しく、出来ないと言うのが解答であろう。なぜなら、F104の小さい翼から理解できるとおり、着陸のための進入速度が大きいこと、及び着陸のための高揚力装置のBLCが、着陸に及ぼす影響が大きいことであろう。しかし、これを結局やり遂げてしまった。すばらしい事であった。
  無人機の運用は、米軍のシステムを導入したものである。機種をファントムで滑走路はソルトレークにあり、無限に近い滑走路を使用している。これを進入速度の速いF104を使用し、滑走路の長さが9000フィート足らずの硫黄島飛行場で実施するのである。
  運用試験では、無人誘導できるF104×2機で実施した。このUF104を地上からテレビを見て誘導する。地上ではコクピットと同じ装置があり、実機からのデーターを地上に受け、これを地上コクピットに表示する。実機からのテレビ画像も地上コクピットの前にテレビを置き、画像を表示している。地上からの操縦動作を、電波に乗せ、飛行機の操作をリモートで実施し、操縦する仕組みである。そしてUF104運用試験中は、実際パイロットも乗り込み、リモートされている、飛行機の動きをモニターし、危ない操作があれば、操縦をテークオーバーして、パイロットが危険を回避する。その繰り返しにより、操縦をより安全に出来るためのデーター収集及び地上パイロットの技量向上を目指した。
  運用試験に係わったパイロットで、硫黄島での飛行隊メンバーは5人。隊長の小川2佐、椋本3佐、簗瀬3佐、宮本3佐、そして私、見田3佐、その他として整備班長が緑川1尉、総括班長及びGC班長が宇賀1尉であった。この内、岐阜の最初からの試験に係わったのが、小川2佐と椋本3佐、宮本3佐、実用試験の最後の一部に係わりそのまま硫黄島に移動した、簗瀬3佐、見田3佐であった。当初に置いてこのプロジェクトが成り立ったのは、小川2佐のリモートコントロール技術に負うところが非常に大きい。2年後の実運用にむけ、メンバーは徐々に変わり椋本3佐、宮本3佐が小野3佐、田中3佐へ、簗瀬3佐が尾池3佐へ見田3佐が清水3佐そして後藤3佐と交代し、その最終のメンバーにより、無人機運用が達成されることになる。

  硫黄島は、第二次大戦の激戦地である。ここで2万人の日本人が亡くなっている。現在でも1万人の遺骨がこの地に眠っている。当時のトンネルが網の目のようにこの島全体に掘りめぐらされ、一部この中に入ることが出来る。
  したがって、お化けの話は、枚挙のいとまがない。隊員の居室の入り口の前に、お水を備えている人が多い。その水が、誰も飲んでないのに、朝になると減るとか、金縛りに合うとか、夜中になるとドアをドンドンとたたかれるとか、バスで島内を通過したとき、兵隊さんが列をなして待っていたとかである。
  実際、私は夜中の2時前後に、人の気配で毎回目が覚めていた。
  ○○3佐は、自分の居室の下から、遺骨が多量に発見された事を聞き、夜中は必ず電気をつけて、かつ酔っぱらった状態で就寝していた。
  ○○3佐は、仏像を彫っていた。当時仏像なんてという想いがあった自分であるが、結局、私も仏像を彫っている。
  人間には、身体、精神ともう一つ魂の存在の確信が、この時生まれた。
  私のお化けのつきあいの考えは、感謝すれど距離を置くという立場であった。夜中のある気配に対しては、なぜか般若心経を唱えていた。

  硫黄島の生活では、水が貴重であることであった。水は、雨水をためて使っているのと、海水淡水化装置の使用とで、給水している。洗濯物は、洗濯機でするが、すすぎ水は、洗濯機にすすぎ水をためて、これのみですすぎを終わらせる。そのため、洗濯の段階から、洗剤を少なくして行っていた。
  硫黄島で、米海軍の夜間飛行離着陸訓練の施設が整備され、雨水の貯水槽が倍増され、私が硫黄島在島間、水不足のため、本土に帰るというラッキーな事はなかった。
  電気は、自家発電により、不自由はなかった。電話も公衆電話があり、東京都内と同様に使えた。インターネットは、当時していいなかったので、出来るかどうか不明である。たぶん自分用の電話を引けば、出来ると思う。
  食事は、民間委託されて、美味しいご飯を頂くことができた。石巻の出身の人も料理を作っていた。昔は船のコックをしていたそうである。
  風呂はなく、シャワーのみの生活であったが、慣れると不自由はなかった。島内の至る所にあるトンネルの中に、島の地熱のため、サウナとして利用できる場所があった。居住地から2キロほどの距離があり、駆け足、皆とサウナに入りに行った。ここから海を見ていると、時々、鯨が塩を吹き上げているのが見えた。
  鯨は、この周辺で子育てをするらしく、子連れで泳いでいるのを、飛行機から見たことがしばしばあった。
最初に、飛行機から鯨を見たときは、感動した。
  島内のジャングルでは、自然のパイナップル、マンゴー、硫黄島唐辛子が自生している。
  ジャンボシメジがこれまたおいしい。普通のしめじのよりかなり大きい。大人の太股くらいある。私は、北海道にいるとき、しめじを食べて、下痢したことがあり、皆が食べて何もないのを確認し、食べることにした。携帯コンロに魚焼き用の網をおき、その上にシメジを焼きながら食べた。非常に美味しいシメジであった。ちょうど尾池3佐が遊びに来たので、シメジをすすめた。尾池3佐は、食中毒の不安から、断ったが、ビールで消毒しているから大丈夫と安心して貰い、二人で美味しいといいながら食べた。消灯時間が近づき、後かたづけを行い、尾池3佐は自分の部屋に帰り、私は、そのままベッドに寝た。そのころから腹が痛くなるし、吐き気はするしで、トイレに吐きに数回行った。気持ち悪くよく眠れなかった。尾池3佐は大丈夫だろうかと思い、部屋に訪ねようか思ったが、丈夫な方だし、翌日になれば判る話であり、中止した。
  翌日、飛行隊で待っていると、尾池3佐の出勤である。やはりげっそりした顔をしており、目の下にくまが出来ている。
  第一声が「せんぱ〜い!!」であった。
  平謝りに謝り、一件落着
  この件後話!!
  宮城の家族には、電話で話しておいた。その後、電話したとき、ジャンボシメジ美味しかったという報告を得た。冗談ではない。私が下痢を起こした毒性シメジを、それをしっていながら、食べるとは許せないと思った。同じ松島基地出身の隊員が、宮城の家族へジャンボシメジを宅急便で送り、それをお裾分けして頂いたようである。結論を言えば、私たちが食べたシメジは、火が十分通っていなかったようである。バター炒め等で、火を十分通せば美味しくいただけたと理解した。

19 4空団安全班長
  安全は危険の反対語で、危険でない状態である。人間はミスをする。機械は故障する。飛ぶ飛行機は落ちることがある。飛行機が落ちると、人命にかかわり、社会的影響も大なるものがある。飛行部隊の安全維持は、重要度が大きい。安全班長は飛行安全、地上安全を含めて団の安全維持のため、団司令直轄で補佐する。航空団の幕僚は初めてで、手探り状態の中での安全幕僚活動であった。
  実際、部隊の状況を、資料から分析して、対策を立て、実行して行くことになる。しかし、事故が多いため、その隊は雰囲気が悪いかというと必ずしもそうでない。事故の無い隊が、隊長以下の意志疎通が悪く、雰囲気の悪い隊もある。
  毎月実施する団安全会議の準備、同会議の実施及び危険報告の起案等の中で、徐々に安全に関しての考えができあがってきたように感じる。思いつくままに書き上げると
@ 事故はいつどこで起きても不思議ではない。
A 物事には波があり、事故は弱い部分にでる。
B 月の満ち欠けと事故には相関関係がありそうだ。
C 隊員一人一人の心に安全意識を持たせることが重要だ。
D そのためには班、隊、群、団の組織的活動も重要だ。
E 意外と隊の中には、意志疎通が図れていない、雰囲気の暗いところもある。それは、隊長の言動が結構大きな影響を与えている
F 事故と心には関係があり、心配、不安、恐怖等の考えは、事故を呼び込む作用があるようだ。
G 逆に、前向き、積極的な考え行動は、事故を遠ざけているようだ。
H 仕事に関する知識、能力が安全の基礎である。技能アップは事故レベルを下げ、安全レベルを上げる。しかし「安全レベルが高い」と安心してしまうと、そこに落とし穴がある。
I 誰かが、その人の事を思っていれば、その人に事故は起きない。
J 繰り返しの教育が重要である。
K 等々・・・・・
   結論を言えば、隊員一人一人の知識技能があり、考えが前向きで向上意欲が高く、隊としての雰囲気が明るく意志疎通が図られ、関係セクションの長は、部下隊員の事を常に心に思い描きつつ身上把握し、指導し、心の中まで善導し、特に満月、新月の付近は心を配り、隊のリズムの低調な時にも注意をして仕事をすれば、事故はないし、起きても軽く済む。ただし、事故がないからと慢心しないように心がけることも重要である。
   そんな安全班長時代は、団司令の指導もあり、とにかく足で稼ぐ仕事に心がけた。いろいろな隊があるが、お茶を飲みに行くようにした。知らない所にいくと、皆警戒して安全班長が何しにきたという目で見られた。比較的、知っている人がいるところは行きやすいが、冷たい目の中の隊は行きづらかった。しかし、安全班長が職場に遊びに行っても普通の事となってからはじめて隊の実体が把握できるようになったように思う。お陰で、この時代飛行安全は無事故で過ごすことができ、安全褒賞を空幕長から受領できた。このときのエピソードを一つ。安全褒賞を受領する直前に、自分の航空団に食中毒が発生したとの情報を得た。確認する時間を得ることが出来ず、そのまま安全褒賞を幕僚長から頂き、そのまま会食に移行した。食中毒があれば、必ず連絡があるはずだ。心配するなと団司令は言われたが、食中毒を起こした後ろめたさから、食事はのどを通らなかった。団司令も同じ状態であったと思うが腹が据わったすばらしい方でそんな不安な態度は少しもでていなかった。食事が終わり、廊下に出たところで、別の航空団で発生した食中毒であり、数字の書き間違えで自分の航空団が食中毒を起こしたとの間違い情報と判明してほっとした。航空団の雰囲気は、団司令次第であり、航空団の無事故は、団司令のお陰かなとつくづく感じたものであった。お陰で、楽しい安全班長時代を過ごすことができた。
  
  つづく

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